ゴールデンウィーク

5月の第2日曜日は「母の日」、6月の第3日曜日は「父の日」です。
この日は、日頃はなかなか伝えられない父母への感謝の気持を伝えるよいチャンス。もともと両日とも、お母さんやお父さんに感謝する娘の気持ちから生まれた記念日なのです。

「母の日」の由来

一般的には、古代ローマ時代のローマで、神々の母リーアに感謝するための春祭りが行われていたのが起源であるとか、17世紀のイギリスで、復活祭(イースター)の40日前の日曜日を「マザーズ・サンデー」とし、母親と過ごすために出稼ぎ労働者を里帰りさせていたのが広まったからなどの説があります。
日本の「母の日」に関しては、アメリカのジャービス母娘の活動から始まったというのが定説となっています。

アメリカ発祥の「母の日」

今から100年ほど前、ウエストバージニア州に住むアンナ・ジャービスは、1905年5月9日に亡くなった母のミセス・ジャービスを追悼するため、フィラデルフィアの協会で白いカーネーションを配りました。この日が1908年5月10日、つまり5月の第2日曜日でした。
アンナは、その後も母に感謝する日を祝日にするための普及運動を続け、1910年ウエストバージニア州が「母の日」を祝日として認定、その4年後には、5月の第2日曜日が「母の日」に制定され、アメリカ国民の祝日になりました。

では、提唱者のアンナがこれほどまでに敬愛し、世界中で「母の日」が祝われる起源ともなったアンナの母とは、どんな人物だったのでしょうか?

ミセス・ジャービスの平和運動

牧師と結婚したミセス・ジャービスは、地域の医療・衛生環境の改善のため、1858年に「Mothers Day Work Club」というボランティア団体を結成し、社会運動家として活躍していました。
この団体が注目を集めたのは、南北戦争(1861年~65年)が開戦した時です。中立を宣言して南北双方の兵士をわけへだてなく看病し、終戦後は南北双方の兵士や地域の人々を招いたイベントを成功させるなど、平和を願って献身的に働きました。女性が社会的弱者だった時代に、こうした母親としての社会活動は大変意義のあるものであり、社会改革に大きく貢献しました。
そして母亡き後、娘のアンナが敬愛してやまない母のために、祝日の制定に向けて活動し、6年がかりでその夢を叶えました。アンナの推進した「母の日」とは、母親への感謝だけではなく、平和を願う母親たちの社会運動を記念したものでもありました。
ところが、こうした素晴らしい理念から生まれた「母の日」も、政治的、商業的思惑によって "家族のために頑張ってくれている母にプレゼント(カーネーション)を贈る日"にすり替わってしまいました。カーネーションが驚くほど高値になったり、年々盛大になったりすることで、本質が歪められたと感じたアンナは訴訟を起こしますが、結果は敗訴。
現在は母に感謝する日としてすっかり定着していますが、それも平和だからこそなのでしょう。

日本の「母の日」はいつから?

「母の日」は日本にはいつどうやって伝わってきたのでしょうか?
1913年(大正2年)ごろ、キリスト教会・日曜学校などでは「母の日」の行事が始まりました。そして、1915年(大正4年)、青山学院教授だったアレキサンダー女史によって紹介され、キリスト教関係団体が中心となって「母の日」を普及し始めましたが、まだ一般的な広がりはありませんでした。
そして、1931年(昭和6年)には、皇太后の誕生日である3月6日が「母の日」となりました。
1937年(昭和12年)森永製菓などが普及活動を展開し、全国的に広がり始めましたが、戦争により、それどころではない時代に。そして、終戦後、1947年(昭和22年)、公式に5月の第2日曜日が「母の日」となりました。

赤いカーネーションと白いカーネーション

なぜ「母の日」に贈る花は、カーネーションなのでしょうか?
カーネーションは"母と子"や"母性愛"を象徴する花で、十字架にかけられたキリストを見送った聖母マリアの涙から生じた花だといわれています。白いカーネーションは十字架にかけられる前のキリストとマリアを、赤いカーネーションはキリストの体から散った血の色や復活したキリストを象徴しています。
カーネーションの花言葉は「母の愛情」。5月の誕生花でもあります。
そんなカーネーションをミセス・ジャービスが好んだことから、その追悼式に捧げられ、「母の日」のシンボルとなりました。
その後アンナの提案で、母の存命する者は赤いカーネーションを、母を亡くした者は白いカーネーションを自分の胸につけるようになり、やがて母へ花を贈るようになりました。
日本では、「母の日」が普及した当初のカーネーションは造花でした。戦後「全国未亡人団体協議会」などが中心となって販売していました。しかし、母がいるかいないかで色分けをすることで、子ども心を傷つける心配や、義母に育てられている子どもの迷いなどに配慮して、1960年からは同協議会でも赤一色に統一されました。
現在は生花が中心で、色も赤ばかりではなく、ピンクやオレンジなどカラフルな色合いも楽しまれています。

「父の日」の由来

「母の日」に比べて影の薄い「父の日」ですが、この「父の日」もアメリカで生まれました。
アメリカのジョン・ブルース・ドット夫人(ソノラ・スマート・ドット)が、南北戦争後、男手ひとつで6人の子を育ててくれた父への感謝の気持ちを表すため、「母の日のように父の日もあるべき」と1909年ごろから活動し、1972年にアメリカ国民の祝日になりました。
ドット夫人が父の墓前に白いバラを供えたことから、アメリカではお父さんへバラを贈るのが習わしだったそうです。

その後、「父の日」は日本へも伝わり、1980年代ごろから広がっていきました。
1981年に設立された「FDC日本ファーザーズ・デイ委員会」では、父の日には「黄色いリボン」を送ろうという活動をしています。「黄色」は古来、イギリスで身を守る色といわれ、アメリカに伝わると「愛する人の無事を願う黄色いリボン」として定着しました。そこで、お父さんへの感謝の気持ちを、黄色いリボンに込めて伝えましょうという活動が始められました。

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