30年余り慣れ親しんだ「平成」に変わり、2019年5月1日から「令和(れいわ)」に元号が変わります。元号は、年につける称号で日本では約1300年にわたり続いてきました。何気なく使っている元号の歩みを振り返ってみます。
■日本初の元号は「大化(たいか)」
世界で最初の元号は、紀元前2世紀、中国・前漢の武帝が定めた「建元」といわれています。その後、漢字や儒教などの文化とともに、周辺諸国の日本や朝鮮半島、ベトナムなどへ広がっていきました。
日本初の元号は「大化(たいか)」(645年)から始まりました。教科書で習う「大化の改新」の大化です。元号を用いることで改革への意気込みを示したといわれます。ただ、長くは続かず、元号が制度として定着したのは4番目の元号「大宝」(701年)で、「大宝律令」でも元号の使用を命じています。以来、日本の元号は今日に至るまで連綿と続いていますが、元号の本家である中国では、1911年に清朝が倒れ、元号は廃止されました。現在、世界で元号を使うのは日本だけです。
■「一世一元」制までは改元の理由はさまざま
「平成」から「令和」への改元は、明治時代から採用された天皇一代に元号一つを定める「一世一元」制の流れを汲んでいます。
明治以前は「大化」から江戸時代最後の「慶応」まで243の元号があります。この間、天皇は86代を数えますので、天皇一代に平均で約2.8回改元した計算になります。特に多いのは、後醍醐天皇(在位1318~1339年)と後花園天皇(在位1428~1464年)でそれぞれ8回も改元しています。
改元の理由は様々で、天皇の代替わりに伴う「代始改元」、吉兆とされる現象を理由とする「祥瑞改元」、天災や戦乱を受けた時に災いを払うための「災異改元」、大きな革命が起きるとされた辛酉や甲子の年に改元する「革命改元」などがあります。
■元号存続となった「平成」
元号は天皇制と深くかかわっているため、太平洋戦争終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は新たな皇室典範では元号について明記せず、1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法において元号に関する規定のない皇室典範が施行されました。これによって元号の法的根拠はなくなりました。
それでも昭和は続き、昭和天皇が高齢化するにつれ、元号の存続に関心が集まるようになりました。天皇が崩御すれば、元号は昭和を最後に消滅することもあり得ました。そこで、慣習として国民生活に深く根付いている元号を立法化する動きが起こり、1979年(昭和54年)6月6日、わずか2項目からなる元号法が成立しました。
1 元号は、政令で決める。
2 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
これは、元号は内閣が決めるということと、明治以来の一世一元制を続けることを意味しています。
■元号の決め方
近世以前は、学者が案を勧申(かんじん)し、勧申された案を公卿らが討議して絞り込み、最後は天皇による勅定(ちょくじょう)で決めていました。将軍など「時の権力者」が改元を促すことなどはあっても、最終決定は天皇が行っていました。
ですから、現憲法下での初の改元となった「平成」が、初めて政府が決めた元号となります。とは言え、政府は元号と天皇の関係の深さに配慮して、平成を公表する直前、天皇陛下にお知らせしており、「令和」の改元についてもそれに倣っています。今回の改元では、政府は新元号を公表直前に天皇陛下と皇太子さまに報告しました。
これまで天皇が在位中に次の天皇の代に使う元号を定めたという例はなく、今回が史上初ということになります。
■「令和」に込められた願い
「令和」は、日本の古典を典拠とする初めての元号で、「万葉集」の「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」からきています。「令和」には、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味が込められているそうで、日本独自の文化を大切にしながら、平和に感謝し次代の発展を願う美しい元号となりました。皇太子さまが新天皇に即位する5月1日午前0時に新元号を定める政令が施行され、改元となります。希望に満ちた新しい時代が切り開かれることを願ってやみません。
2019年04月03日