2015年08月27日

八朔


旧暦8月1日は「八日朔日」を略して「八朔」といいます。この時期に田んぼでは早稲(わせ)の穂が実ることから、本格的な収穫を前に「豊作祈願」と「田の実りをお供えする」という意味を込めて、各地で様々な行事が行われていました。「八朔節供」「田の実の節供」などといい、現在でも八朔にまつわる風習が残っています。


■実りの前の豊作祈願

pixta_5766116_S秋の稲穂.jpg

旧暦8月1日は、新暦では9月上旬にあたります。この時期は、稲の穂が外に出て、モミからおしべが顔を出す大切な時期ですが、台風や害虫、鳥の被害を受けることも多いため、八朔には豊作祈願の祭りが各地で行われました。
西日本ではこの「穂出し」を祈願する行事を「たのむ」「たのみの祝い」「たのもの節供」などといい、九州北部では、七夕の笹のようなものを立てて田の畔で作頼みをする風習があります。
また、八朔に「穂掛け」という、早稲の穂を採ってきて焼米を作るなどの刈り初めの行事を行うところもあります。



■贈答でつなぐ絆

「豊作祈願」の一方、「田の実」が「頼み」に転じ、八朔にはさまざまな贈答の風習が生まれ、親戚間や付き合いのある家どうしで贈り物をし、助け合って生きていくための結びつきを強めました。
四国や中国地方には、「八朔の馬節供」と称して、馬や鶴亀などの形の米粉の細工を作って親戚や近所の家に贈る風習があります。そして、それを初めて生まれた子どものお祝いとして飾り、上巳の節供や端午の節供のように「八朔の節供」として祝うところもありました。
香川県丸亀地方には今も「八朔だんご馬」の風習が残っており、八朔に地元で採れた米の粉で、前肢高く上げた、いななく駿馬を作り、男児のいる家に贈り、飾る風習があります。
米粉を使うことから、これら行事は「穂掛け」の行事がルーツになっていると思われます。

庶民の間の素朴な八朔の贈答習慣は、やがて武家社会を中心に広まっていったといわれています。室町時代になると、武家社会には贈答のしきたりができ、将軍と朝廷間の贈答や将軍と武家衆、公家衆間の贈答のルールもできあがり、八朔の馬を将軍から朝廷に献上する「八朔御馬献上」なども行われていました。
江戸幕府では、天正18年(1590年)のこの日に徳川家康が江戸入りしたことにちなみ、
「八朔」を正月元日に次ぐ重要な日としており、「八朔御祝儀」といい、大名・旗本が白帷子姿で総出仕する日となっていました。

また、花街でも八朔に挨拶まわりをする風習がありました。今でも、京都の芸舞妓は8月1日に正装姿で芸事の師匠や茶屋をまわっています。

ページトップへ